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読書感想など

【小説】猫の文学館I: 世界は今、猫のものになる

犬派と猫派ではどちら、という質問に対しては「どちらも」としか回答のしようがない。優柔不断とかそういった事ではなく、子どもの頃に両者ともに生活をしていたからだ。(飼っていた、という言い方にどこか引っかかるので、生活していたなどと言ってみる)犬は中学生の頃に老衰でこの世を去った。猫は田舎のせいか近所に何匹もいたり、家族が引き取ってくるなどして絶えることがなかった。
一人暮らしをする様になってからは、自分を養うのに精一杯なので動物と一緒に住むことはない。犬だろうが、猫だろうが、その他の動物だろうが、自分一人となると家にいない時間が長いので、その間世話ができない。トイレを用意してご飯を多く出しておけばいいのかもしれないが、どうにもしっくりこない。
ここから先は犬の話はありません。
猫に会えるのは年に数回実家に帰る時だ。自分の知らない新しい猫もいれば、実家にいた時から住んでいるベテラン勢もいる。擬人化して「よく帰ってきたねえ」「え、あんた誰。知らない人」などとセリフを勝手にアフレコしてもいいが、久しぶりに帰っても何のリアクションもなければ歓迎してる様子もない。ただ、腹が減った時に足元に寄ってきて、ニャーニャー鳴いてくる。(歳を取っているのでどちらかといえば、濁音の入ったニャーニャーだ)缶詰なり、お菓子(一般的な愛猫家たちはカリカリと言っている)なりを出してあげれば、すぐに食べる猫もいれば、一切口にしない猫もいる。ああ、そういえば少し高級なお菓子の方がいいのねとすぐに思い出す。彼らからすれば私は、鳴けばご飯を出してくれる人程度の扱いである。それは実家を出る前から変わらない。一人暮らしで私がしばらく姿を現さずともその地位は不動となっている。その温度差が丁度いい猫との付き合い方なのかもしれない。
 
『猫の文学館I: 世界は今、猫のものになる』を読了。
古典から現代までの猫にまつわる短編・エッセイ・短歌などを集めたアンソロジー
猫は不変で普遍的な生物であり、残酷な事をして、残酷な事をされる。ただ可愛く美しいだけが猫の魅力ではない。
 
《商品紹介》
大佛次郎寺田寅彦太宰治鴨居羊子向田邦子村上春樹…いつの時代も、日本の作家たちはみんな猫が大好きだった。そして、猫から大いにインスピレーションを得ていた。歌舞伎座に住みついた猫、風呂敷に包まれて川に流される猫、陽だまりの中で背中を丸めて眠りこんでいる猫、飼い主の足もとに顔をすりつける猫、昨日も今日もノラちゃんとデートに余念のない猫などなど、ページを開くとそこはさまざまな猫たちの大行進。猫のきまぐれにいつも振り回されている、猫好きにささげる47編!!
 

 

猫の文学館I: 世界は今、猫のものになる (ちくま文庫)

猫の文学館I: 世界は今、猫のものになる (ちくま文庫)

 

 

【小説】世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド/村上春樹

2016/1/1読了
 
年が開ける前の30、31、そして1/1で読み終えた。
忘れているシーンが多く何度も読んでいるにもかかわらず新鮮な気持ちで読んでいた。そして読み直している時に気がついたことがあった。2つのパートは並行して進んでいると思っていたが、「ハードボイルド」の章で眠ってしまった僕(主人公)が行き着いた先が「世界の終わり」の章ではないだろうか。

 

前半の冒険・探偵パートも好きではあるが、一番好きなのは自分の死(心の中で生きる)を知ったあとで、今まで気にもしなかった事を知り、その事に喜びを感じるシーン。
 
かたつむり、クリーニング店の店主、植木、レンタカー、タクシー、音楽、服。
普段通り過ぎていく街の細部を知る事で、今まで自分は世界についても何も知らなかった事に気がつく。カウントダウンは止める手段はない。今更になってこの世界を慈しみはじめたが、それには遅すぎた。
遠くを見るだけでは手に入らないものが沢山ある。それはいつでも身近にあって、気がつく事ができるのは僅かな人間。
 
一つの風、一つの木、一つの雨。
実体としてそこにあるものと自分の内側を繋げる事が出来るか否か。それが問題ではあるが、実際にはそんな些細な事に気がつかなくでも人生を歩む事はできる。ただ自分はその細部に気がついて、愛でていきたい。
 

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

 

 

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻 (新潮文庫 む 5-5)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻 (新潮文庫 む 5-5)

 

 

【映画】君の名は。

夜の回だったので人も少なく、落ち着いて見ることができた。

なぜここまで観ることを引き延ばしてしまったのか、それは主人公の「瀧」と「三葉」が入れ替わることで互いに恥をかいてしまうシーンがあるのではという不安があったからだ。
どうも自分はああいったシーンがあると自分まで恥ずかしくなってしまい、途端に観たくなくなってしまう。しかし実際見てみると、ボカされていることもあり一安心。

入れ替わることや、その他の大ネタ部分は言ってしまえば設定や考証としてガバガバ。だけど「そんなこと気にすんな!」と言わんばかりの”気持ちよさ”がそこにはある。

あるシーンへとつながるピースがそこらじゅうに散りばめられており、それがどんどん回収されていく。
その気持ちよさ、画面の美麗さ、キャラクターが書き割りではなく血肉を持って行動する生命感に「あっイク!」となり、矛盾などどうでもよくなる。
(逆を言うと見終わった後で色々と気がついてしまう)

これは震災映画の一つで、もしかしたら出会えたかもしれない人々と出会えるのならば…という願いや望みの映画なのかもしれない。

だからなのか劇中ではカップルムービーとしてバリバリ押し出しているわけではなく、感傷的な雰囲気が漂っている。また、個人的に震災映画とカテゴライズしてしまったせいか、あるシーンである人がポツリとつぶやいた言葉で目が痛くなるほど号泣した。

観るのが遅かったがほとんど感想などの情報を入れていなかったので今更知ったのですが、東広紀さんが「オタクの時代は終わったんだなということですね」と発言したんですね。
http://togetter.com/li/1022432

 

カップルムービーとしての一面も確かにありつつ、プラトニックラブを求めるオタク的な面もある。
子供アニメやジブリなど地位を築いているアニメならばまだしも、なぜここまでヒットしているのか? 考えてみるとアニメや萌え系といったものがメディアのおもちゃになった時代から「あの花」や「サマーウォーズ」などの青春アニメが土台となってくれたおかげで、アニメを観ることが一般的になった。
つまりは娯楽としてアニメを消費する世代(10〜20代)が出てきたのが今回のヒットに繋がっているのだろう。

ライトなアニメであればオタクと一般人という境界はすでになくなっている。面白いもの心揺さぶるものを”アニメだから”という理由でフィルターをかけてしまうのはもったいないのでとてもいいことだと思う。

「映画を観に行ったら周りがカップルだらけでキスしていた」とTwitterで見かけたが、これについてはしょうがない!むしろキスしろ、と言いたくなってしまう。