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読書感想など

絶望から再生へ至る道『青春三部作』+『ダンス・ダンス・ダンス』/村上春樹 (ネタバレ含)

個人的解釈
 
村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」から始まり「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」までの初期三部作は語り手である<僕>と友人の<鼠>の物語であり、『青春三部作』とも言われている。そして『青春三部作』後の「ダンス・ダンス・ダンス」の一作。
端的に説明すると<僕>は様々な人物と出会うが、誰もが彼のもとを通り過ぎて行き何も残らない《絶望・喪失》の物語となっている。

 

風の歌を聴け」はこのように始まる。
”「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」”
これは『青春三部作』および「ダンス・ダンス・ダンス」の4作品を繋いでいる序文である。「風の歌を聴け」を書き始めた頃から4作品の構想があったのかは不明ではあるが、少なくとも「20代最後の年を迎えた」と明言しているので20代後半の話である「羊をめぐる冒険」までは構想していたのではないだろうか。
 
また4作品全ては<僕>が書いた文章であると認識している。それは同じく「風の歌を聴け」の序文から20代最後の年になり今までの出来事を語り文章を書くことで自己療養への試みる、と書かれている事からの推察である。
 

風の歌を聴け

<僕><鼠><4本指の女>を軸として展開する。大きな事件も起こらないし大変な目に合うわけでもなく、酒を飲み音楽を聴いて、アクションシーンや暴力事もなく会話と独白でストーリーは進んでいく。
 
友人<鼠>は金持ちを憎んでおり度々大声で金持ちを罵倒する言葉を吐く。しかし彼の親自体は金持ちであり裕福な家庭と言える。<4本指の女>は介抱したキッカケで親しくなった。男の友情話であり、男女の話でもある。
 
<僕>と<鼠>、<僕>と<4本指の女>交互に2組の組み合わせで物語は進んでいく。
それぞれ単独のストーリーの様に感じるが、会話シーンの前後を整理するとおそらく<鼠>と<4本指の女>は男女の仲だった。しかし家族から反対された事で金持ちの親を憎んでいた。
その事について<鼠>は女について相談したいと言ったが、その翌日には「止めた」と一言だけでそれ以上の事は語らなかった。<4本指の女>は旅行に出かけると称して子供をおろした。恐らく<鼠>の子供だ。
 
<鼠>と<4本指の女>が一緒になるシーンが描かれていないので前後の描写の間を想像したに過ぎないが、そうしないと三人の繋がりが見えない。
<僕>はこの時点で近いし人間の死を経験して、悪夢を見ている。彼の喪失の物語はそれ以前から始まっている。作品全体に何処かに置いてきてしまった様な喪失感、そしてどこか世界から切り離された空虚な雰囲気が漂っている。
 
その他にも幾つも独立したストーリーが並行して展開されていて「なぜこのエピソードを挟むのだろう?」と疑問に思ってしまうが、説明を省いているだけでそれぞれが細い糸で繋がっている。そこを読者側が想像性で埋める事でやっと全体像を把握できる。と、いっても解釈の仕方によって様変わりしてしまうので捉え方一つで物語が幾重にも想像ができる。
 

1973年のピンボール

前作同様に事件も起こらず<僕>と<鼠>の日常が綴られている。日常といっても幸せな日々を送っているというよりも、その日常から抜け出せない事に焦燥感やどこか諦めに似た雰囲気が終始漂っている。誰も急ぐ事もなく怒る事も喜ぶ事もなく淡々と日々は過ぎていく。
 
「表裏一体」「対立」「対比」小説を読んでいる時からその言葉が離れることがなかった。出口と入口、コインの裏表の様な密接で切り離すことのできない関係性。それを冒頭から語っており、それに対応するように見分けのつかない<双子>が<僕>の部屋に転がり込んだり、関連するエピソードがちりばめられている。それは前作の「風の音を聴け」から<僕>と<鼠>という2人の関係性にも共通することである。
 
移り住んだ街で事業を起こして友人と業務に明け暮れる<僕>
”「もう僕は空っぽになってしまったような気がした。もう誰にも何も与えることはできないのかもしれない。」
「何かを手に入れる別の何かを踏みつけて来た。」”

 

生まれた街に止まり、親から与えられたマンションに住む<鼠>
”「どんな進歩も変化も結局は崩壊の過程にすぎないんじゃないかってね。」”
 
題名にもなっているピンボールは<僕>がかつてプレイしたピンボール「スペースシップ」を探し求める事から名付けられた。目的のピンボールを見つけたが、遊ぶ事もなくただ語りハイスコアを更新する事もなかった。その当時を思い出して死んだ誰かの言葉に耳を傾けているような描写が挟まれる。
 
対比している様で似通っている2人の男。コインの裏表のように本質では同じで繋がっている。
未来に怯えていつまでもそこから動く事もなく同じような日々を送っていた<鼠>は変わるために女と会う事をやめて街を出た。<僕>は逆に街に留まり<双子>を見送った。
また、最初の方で【また4作品全ては<僕>が書いた文章であり主観であると認識している。】としているが本作では<鼠>を視点としたエピソードも含まれている。それは次作の「羊をめぐる冒険」にて<鼠>が<僕>に送った小説から抜粋したのではないか(と、いう妄想)。
 
過去にプレイしたピンボールや、過去に聞いた話を確かめるために遠くの駅まで出かけたり、過去にとわられていることが示唆されている。未来を抱く事の恐怖と過去の後悔が入り混じり「羊をめぐる冒険」に繋がっていく。
 

羊をめぐる冒険

前作から数年、<僕>は結婚・離婚を経験して。その後耳専門のモデル<キキ>*1と恋人になる。
前作、前々作と比較すると一本筋の「羊を探す」という目的があり、人間の領域とはまた違う力が存在するファンタジーの様な世界に迷い込み、今まで以上に多くの人間と出会う。
発信点は<鼠>。<僕>は彼から羊の写真を受け取っており、それが本作の目的「羊探し」のきっかけとなる。
一緒に羊を探すパートナーの<キキ>。彼女は特殊な力も備わっており、羊探しの先導者ともいえる。彼女の存在は今までの女性の中で一番大きく、次作へつながる重要な人物。
 
題名にもなっている羊とは? 
概念的な存在であり、それに取り憑かれると全てを奪われる。しかしそれと引き換えに力を手に入れる事もできる。
一番の謎と言える<羊男>の存在。彼は羊の被り物をして山の中で暮らしている。羊を探してある牧場を訪れた<僕>の目の前に現れた人物。被害を加えることもなく最後までその存在は謎のままではあるが、羊の抜け殻・もしくは元々一つだった羊が善と悪の様に二つに分かれてしまったのかもしれない。
 
<キキ>も特殊な力を持っているので整理をすると下記の様な対立関係になる。
 [鼠+羊] / [僕+キキ]
 
対立関係としては片方を「羊=悪魔」とするともう片方を「天使」とするのが簡単ではあるが、そのフレーズを入れると途端に胡散臭いオカルト小説になるので「根源的な力」程度に収めておく。
ただ、その特殊な存在は<鼠>を探すための舞台装置でしかなくその力を発揮して戦うというシチュレーションはない。ただ単に<僕>と<鼠>を引き合わせるためのきっかけでしかない。
 
妻との別れ、キキと別れ、鼠とも別れた。もう誰とも出会うことなく次々に失って行った。「羊をめぐる冒険」は喪失の物語。いや、「風の音をきけ」「1973年のピンボール」そして本作いずれも《喪失》を描いている。<僕>の友人、恋人、妻、誰も彼もが去って行く。それは<僕>という存在が原因というよりもそういった星の元で生まれたという言い方の方が正しいのかもしれない。いるかホテルのオーナーが何をしても上手くいかない人生の様に彼の周りでは誰もとどまらない人生なのかもしれない。
 
話の合間に入る一見関係のない会話。本来の道筋とは関係のない(と思われる)が、村上春樹が自身で思っていること考えをキャラクターで自問自答をして答えを探し求めているように感じた。その会話は道筋を立てた論理的なものではなく話の道筋から外れてしまい戻ってこなかったり、戻って来ても全く違う話になっている。その前に考えていた事を突然思い出したりと常に液体の様に定まらない。一見意味のないセリフなので「話が進まない」「これに意味があるのか」と思ってしまうがその後に繋がる場合がある。
 
三部作の最後「羊をめぐる冒険」で<僕>は絶望へと落ちていく。
 

ダンス・ダンス・ダンス

ダンス・ダンス・ダンス」は30代半ばになった<僕>を描き、前三部作とはテイストが違う《再生》の物語となっている。一作目で示している通り前三部作は20代最後の年に書かれた物語であり、<鼠>喪失後の描いている。
 
<僕>は三部作中で何人もの人間を失いその傷は癒えないままで<キキ>の夢をみる様になっていた。そして誰かが自分に助けを求めている予感がしていた。「羊を〜」で消えてしまった<キキ>を求めるて再びいるかホテルを訪れた<僕>。そこで<羊男>と再開する。
読み返してみると<羊男>との再開シーンでは「主人公の傾向」や「あっちの世界、こっちの世界」など核になる事を全てを語っている。そこからステップを踏み繋げ続け「羊を〜」以上に多くの人間と関わり合い、それと同じくらい失う。ここで初めて殺人事件が描かれる。といっても推理をしたりトリックやロジックがある探偵めいた行動は起こさないが、その後に繋がっていく。
 
全体を通してよりファンタジー的な要素が含まれている。しかし個人的には第一人称の文体は精神的病に侵されている<僕>が悪夢・白昼夢・幻視を見ているため散文的でまとまりがない様に見せている様に思えた。口に出す冗談は前三部作の様な鋭さはなく、終始滑っている印象がありどこまでも空虚なものでわざとらしい。全ては絶望によって傷ついた心がそう見せているだけでファンタジーでもなんでもなく、空想の世界から抜け出せない一人の男の話の様に思える。(矛盾点は多々あることは認めます。)
再生のステップはいるかホテルから始まった。絶望を抱えた<僕>は<羊男>に再開してステップを踏み始める。多くの人物と出会い、失いステップを踏み続けながら<ユミヨシさん>の居るいるかホテルへ再び戻ってきた。
 
もう一度序文を見てみよう
”「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」”
  
<僕>は<ユミヨシさん>に出会うことで希望や愛といった絶望とは正反対の方向へ向かおうとしている。<僕>の妻、友人、ガールフレンド、多くの人々が彼の上を過ぎ去り二度と戻らなかった。しかし《再生》の物語である「ダンス・ダンス・ダンス」では最後の最後に絶望から抜け出そうとしている。
 
1973年のピンボール」の<双子>は入口と出口のメタファーとして登場をして、別れの際に<僕>は「何処に行く?」と聞くと、「もとのところよ」「かえるだけ」と答える。
 
<僕>はいつの頃からか絶望の入口をくぐり、今まさに出口へ向かっている。 
風の歌を聴け」ではこうも語っている。
”それでも僕はこんな風に考えている。うまくいけばずっと先に、何年か年十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、像は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。”
 

 

ダンス・ダンス・ダンス」<僕>の最後の言葉、絶望の出口から抜け出して救済された最初の言葉は、
”「ユミヨシさん、朝だ」”
再生が始まった。
 

終わりに

1作1作を見てみるとそれぞれ会話や地の文が散文的でまとまりがない印象に感じたが、全体を俯瞰してみると全てに繋がりがあって面白い(程度にも問題はあるが)
 
長年、村上春樹の新刊が出ると長蛇の行列になるのが疑問でしょうがなかったけども、初期の頃からこの様に足りない部分を自分なりに補って元ネタを探して考察されていたのだろう。そこにみんな惹かれているのだろう。(多分)
(謎めいたセリフやフレーズ、アイテムなどエヴァンゲリオンみたいだ)
 

 

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

  

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

 

 

羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)

 

  

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

 
ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

 

 

*1:※1 「羊をめぐる冒険」では名前がなかったのが次作「ダンス・ダンス・ダンス」で<キキ>と呼ばれたことから<キキ>で統一