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読書感想など

男たちの興亡史『電気は誰のものか』/田中聡

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きっかけ
電灯をつけて、パソコンを立ち上げて、今まさにこの文章を書いている。どちらも電気がないと使うことができない。その電気は東京電力と契約をして毎月使った分だけ支払っている。それは生まれた頃から当たり前のことで何一つ疑問にも思わなかった。
そんな折、奇妙なタイトルと表紙デザインに惹かれて『電気は誰のものか』を手に取った。表紙には電球と出刃包丁が並べられている不思議な装丁だ。
「電気の話なのに、なぜ出刃包丁が?」と疑問に思い序文を読み始め、その面白さにレジへ向かった。

 

当たり前になる以前の電気
隣家の電気を盗み逮捕されたり、勝手にお店の電源を使ってケータイを充電をしてトラブルに発展するなど、電気を盗むことは犯罪だということは広く知れ渡っています。しかし、その当たり前になる以前では法曹界を巻き込んだ大騒動がありました。
 
明治三十四年横浜共同電灯会社が「電気が盗まれた」と裁判を起こした。
この裁判では判決が二転三転あり最終的には横浜共同電灯会社が上告を被告は有罪を言い渡された。
 
なぜ物質ではない電気を窃盗として有罪にしたのか理屈を引用して紹介。
“刑法では「物」の定義を与えていないので、窃盗の目的をなりうるかどうかという範囲も限定できない。したがってm可動性と管理可能性の有無によってのみ、窃盗の目的物たりうるかどうかを決めるべきである。しかるに電気は形こそないが、五管でその存在を認識できるし、容器に蓄積することができる。その容器を所持して、別の場所に移すこともできる。つまり可動性と管理可能性とを持っている。ゆえに窃盗罪は成立するとされたのである"
 
この判決後も論争が続き、明治四十年に刑法の改正で「電気は財物とみなす」と明記された。
 
ここで筆者が根本の疑問をあげる
「電気の光や風が電気になった時、それは私の所有物なのだろうか?」
序文でその疑問を提示して、その後の 本文では今当たり前の様に使われている電気がどのように広まり、その時々で起こった事件をとりあげつつ「電気は誰のものか」という問いを繰り返す。

赤穂村の流血騒ぎ
序文だけでも十分面白く刺激的だが、このあとがどんどん面白くなる。
第1章では赤穂村の事件にフォーカスを当てて企業VS村のそうどの始まりから流血騒ぎに至るまでの経緯が書き綴られていく。
民営電気会社から村に電気を引くのか、村営電気会社を作りそこから電気を供給するのか、村を二分する派閥が生まれ激しい火花を散らしていた。
村に発電所を作りたいが中々認めてもらえず、それでも村全体が一致団結しなければならないのに関わらず民営会社から電気を引いている村民がいる。鬱々とした日々の中村民同士のわだかまりや嫉妬、怒りが頂点に達したとき、村民は暴走し始めた。
闇に紛れた村民は電気を引いてる家や商店に対して投石・放火を行い、家を破壊する”報復行為”を開始した。しかもその行いを”正義”として疑わず集団で襲いかかり、ついには村民VS警察までに発展して逮捕者が出てしまった。
 
そのほかにも東京では三社の電気会社の勢力争いを綴る。同じビルでも一階と二階では違う会社が契約をしていたり、工事現場で違う会社同士が鉢合わせして一触即発する場面もあった。
また、大阪では電圧を下げていたことがばれた電気会社が「電気を止めるぞ!」と開き直る始末だ。

電気を深堀することで見えてくる日本の歴史
このあと2章、3章と続いていく中では、初めて電灯が灯った時の人々の奇妙な言動やエピソード、東西のワット数の違いの起源、会社同士の広報合戦、土建屋同士の戦争などが取り上げられている。電気ひとつを掘り下げてみても戦争や政治、企業の成り立ち、当時の風土が分かり、日本の骨子が浮き彫りになる。
近代日本を知る上のひとつの資料となる本です。
 
本書は身近な存在でありながら今まで知らなかったことが電気のことが詰め込まれていて、新しいことを知るごとに脳みそがピリリと刺激され喜びに満ちている。
 

 

電気は誰のものか

電気は誰のものか