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読書感想など

人類にとって個性とは必要なものなのか『クロニスタ 戦争人類学者』/ 柴田勝家

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▼そもそもの始まり

第二回ハヤカワSFコンテスト受賞後の第1作となる本作は大きなスタートを切った勢いをそのままに予想を超える面白さがあった。
 
きっかけとしては『伊藤計劃トリビュート』の1作として本書の一章が掲載された事にある。率直な感想として『ニルヤの島』よりも面白そうだと思ってしまった。そして先月末に書き下ろし作品として店頭に並ぶようになり当日中に購入した。
 

▼統一・平均化させる人類

"自己相"によって感情も考えも統一化されつつある人類。そしてそれを拒む人類に世界は二分され、文化というものが消えつつある。それは日本も例外ではなく、日本という文化は消えている。日本人の血を引く主人公は本当の意味での故郷というものがないと言える。
 
"自己相"は人の感情を抑え込み、誰かへの憎しみも自分への殺意さえコントロールされる。それにより争いは消え本当の意味での平和が訪れるとされている。
不都合な記憶を消す事も出来るし、知らない言語を覚える必要もなく一瞬で取得ができる。格闘技もしかり。しかも人格すらシミュレート出来てしまう。
 
『重力が衰えるとき』という作品では能力の付け替えできたり、有名人の人格を自分に埋め込む事が出来る。人格をシミュレートすると事でオリジナルの自分が希薄になる事をタイトルで示しており、本書との繋がりを考えてしまう。
 

▼自分の文化を個性を消して受け入れるのか

そんな便利な"自己相"だが、それを拒否する人間がいる。彼らは"自己相"を持つ人間からは人間扱いされず難民として放浪している。なぜ受け入れないのだろうか?と考える一方でもし自分なら受け入れるだろうかと悩んでしまう。
 
構図だけ見れば現実と変わりない事に気がつく。欧米化する世界、ヨーロッパ化する世界、その中で独自の文化を形成する民族。しかしその中でも民族を捨て街に住む人もいる。
 
以前アーミッシュに密着したノンフィクション映画を見たことがある。
信仰を守りながら電気もガスも使うことこなく自給自足のコミュニティの中で生活をしているアーミッシュ。彼らを追った映画の中で特に印象に残っているのはアーミッシュの若者が成人を前に一度俗世を堪能するシーンだ。
街へ行き、薬にタバコに酒といった快楽を経験する若者たち。一定の期間楽しんだ後でアーミッシュとして生きるのか、それとも絶縁をして俗世の中で生き続けるのかを決める。少なからず楽しんでいた若者だがその映画では予想を裏切り大半の若者がアーミッシュとして生きることを選択する。
彼らを見ていると不便でしかないように思ってしまうのだがなぜ彼らはそのコミュニティを抜けださずにアーミッシュとして生きるのだろうと疑問に思っており、本書を読んでいる最中にそのことをフラッシュバックのように思い出してしまった。
 
一度染み込んだものは抜け出すことができないのか、受け入れにくいのか、はたまた今の生活を好ましいと思い崩したくないのか。
 
フィクションの小説なれど現実と結びつけたり、他の作品と繋げてみたり色々と『考えてしまう』小説だ。
 

▼雑談

もちろん近未来SF的な兵器や戦闘シーンに素直にカッコイイなと思い、盛り上げ方にアガってしまう。しかしその中でも少々稚拙だなと思ってしまうシーンもあった。

帯には”新世代が継承する『虐殺器官』の問いの涯てー”というキャッチコピーが入っているが、どちらかといえば『ハーモニ』ー以前の話のように思ってしまう。とはいえ何時までも伊藤計劃さんありきの宣伝ではなく柴田勝家さんとしての宣伝しても良いはずだ。
 

 

クロニスタ 戦争人類学者 (ハヤカワ文庫JA)