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読書感想など

【小説】3000文字近いアンドロ羊の感想

ほぼ日では書き足らず以下を書いた。

近未来の地球は環境汚染のため動物が死に絶え、人間が住むことも困難となり移民先として火星にと移り住んでいく。もはや地球に住むのは高額な費用を払えない人間、そして環境汚染によって生殖を禁止させたイレギュラーのレッテルを張られた人間だ。

そんな本物の動物が消えゆき、人間も少なくなりつつある荒廃した地球へと植民奴隷のアンドロイドは逃亡してくる。人間は火星に希望を見て、アンドロイドは地球に希望を見る。

[アンドロイド]という言葉だけを聞くと、ロボットの様な印象を抱くが小説内の描写では一見して人間と遜色ない。むしろ何が違うのだろうと疑問に思ってしまうほど。唯一違うのは他人への共感度。自己の言動によって他人が傷ついたり嫌がったりすることが分からない。あるアンドロイドはクモの足をハサミで8本脚から4本脚にして楽しんでいた。それも無邪気に。しかし自分が子供のころにハサミで切らないまでも、虫に対して残酷なことをした記憶があるのではないだろうか。(アリの巣穴に、トンボを捕まえ、などなど)自分の視点しか持っていないためその残酷性に気が付いていなかった。痛みや命というものが分かっていなかった。成長につれて自己、他社、社会全体、といった複数の視点が持てるからこそ他人への共感が出来る。

主人公であるリック・デッカードは感情や他人への共感度を測る「フォークト=カンプフ測定」によって人間とアンドロイドの見分けている。もし、アンドロイドが機械式ならばそのような必要はないはずだ。単純にスキャンをすればいいのではないかと思ってしまう。

心理テストの様に明確な正解はなく、ただ『他人への共感度が著しく低い』だけで殺されてしまう。アンドロイド的な傾向があるとして壊すのではなく、殺すのだ。生命があるからこそ、肉体があるからこそ「殺す」という言葉が使われるのだろう。小説内ではアンドロイドが作られる描写はないが、人工的に作られた人間ではないか、と思い始めた。

登場人物の一人レイチェルという女性は、最初のテストでアンドロイドと認定され、その弁解として[他人と触れ合う環境で育たなかった]と言った。(結果として彼女もアンドロイドだったらしい)

デッカードと同じ賞金稼ぎのレッシュは、アンドロイド認定をされそうになるが飼っているリスを可愛がっているとデッカードに訴える。アンドロイドならば他者にも動物にも感情移入が出来ないはずだと。彼が人間かアンドロイドなのかは最後まで分からなかった。

『感情移入が出来ないからアンドロイドだ』というのは、ほとんど暴論というか『〇〇できない奴は××だ』の様な相手にレッテルを与える為の虚言の様だ。

♪育ってきた環境が違うから好き嫌いは否めない♪の様に自己を否定されなければよかったが、アンドロイドは生まれや言動を否定され殺されてしまう。

身分を詐称してオペラ歌手として活躍していたラフトはムンクの「思春期」の前でたたずんでいた。

死んだと思っていたデッカードが姿を現したところで、およそアンドロイドらしくない「落ち込む」「諦め」「惜別」といった感情を見せる。彼女はアンドロイドが嫌いだと、人間のマネをしていたと告白をする。そして死ぬ間際に「思春期」が乗っている美術書デッカードにねだった。

〇思春期:裸の少女がベッドに座り、体の前で腕を交差している。目を大きく開き、口を閉じてこちらをじっと見つけている。左の光源は彼女の影は不気味に浮かび上がっている。

絵画からこちらを一点に見つめてくる少女の視線はどこか恐ろしく、それと同時に少女が持つ不安や恐怖を感じられる。彼女の持っている心の機微がこちらにも伝わってくる。それこそ共感ではないだろうか。

結局のところラフトはレッシュに殺されてしまうが、デッカードは彼女の才能が永遠に失われたことを惜しんだ。

イレギュラー(ピンぼけ)のイジドアは孤独だった。たった一人で巨大なマンション群の一室に住み、誰からも気にかけられることもなく、話し相手も友人も家族もいなかった。しかし彼はそこで絶像に落ちることなく子供の様な純粋さを保っていた。

イドジアは囲っていたアンドロイドたちに、殺される殺されないの会議を目の前で見せられたにも関わらず献身的になろうとする。それは今まで誰にも頼られることがないからだろう。

ここではロイ・ベンティーというアンドロイドの残酷性を垣間見る事が出来るが、イドジアをかばったプリスのおおよそアンドロイド的ではない行動も見られる。

ピンぼけとアンドロイド。どちらも社会という枠組みから外されてしまった者たちだ。しかし、それでも地球と火星という環境の違いなのか、イドジアは彼らのことをデッカードに話してしまう。

(裏切りではなく、クモを半殺しにしたアンドロイドたちの姿を見てしまったからだ)

地球に住む人間たちは「共感ボックス」なるものでマーサーという老人の体験を共通体験をする。老人はただ荒廃した山を登り、姿なきものに投石されけがを負う。VRの様なものと思ってほしい。しかもただマーサーの映像を見ているだけではなく、繋がったもの同士が共感をしあうのだ。喜ばしいこと、悲しいことを共感する。他者の痛み喜びを受け入れる。

終盤、マーサーは「ただの俳優だ。偉大なるものではない。偽物である」とアンドロイドたちが暴いた。

偽物といわれているアンドロイドたちが本物とされていた作り物を暴いた。

うろたえる人間もいたが、マーサーは人間であるデッカードとイドジアの前に姿を見せ彼らを導いていく。

偽物だったものが本物になったのだ。

それであれば、アンドロイド(偽物)も人間(本物)になるのではないだろうか。

一日に6体ものアンドロイドを殺したと自己陶酔しながらも自殺するために荒廃した山へと向かう。

死ぬ間際、一体のヒキガエルを見つける。動物大好きっこなデッカードは喜び勇み、家路へとつく。

そこで「マーサーの目で見たから見つかったんだ」とデッカードは言う。

マーサーの目とは?

結果としてヒキガエルは電気仕掛けの偽物だった。それをデッカードは本物だと思い込んだ。

『それであれば、アンドロイド(偽物)も人間(本物)になるのではないだろうか。』と言ったように、あの瞬間デッカードには偽物の電気仕掛けの動物が、血の通った生物に見えた。いや、本物だった。それによりデッカードは死の世界から生の世界へも戻ってこれた。今まで殺してきた偽物に命を助けられたのだ。

小説は人間であるか否か、殺すべきなのか否か、機械か生命なのか、と数ページ・数行前に言っていたことを覆し、更に覆す。それにより揺さぶりをかけ、もはや何が本当なのか混乱を生じさせる。しかし本物とは何か、と考えても答えが出ない。生命において何によって本物と呼べるのか、基準は何か、その基準を決めるのは誰か。と永遠に答えがない穴へと落ちていく。

本書には答えも解決もない。ただリック・デッカードという所帯持ちのあわただしい一日を描いている。

彼はレッテルを張られたアンドロイドを殺す賞金稼ぎとして最尖端に居たが、今まで信じてきた価値観がたった一日で根底から覆された。そんな一日を描いている。