羊をめぐる再冒険を経て『羊をめぐる冒険/村上春樹』
年に何回しか更新しないこのブログも少なからず毎日のようにアクセスがある。その大半は三年前に公開をした村上春樹の青春三部作について書いた以下の記事だ。
今読んでみると自分に事ながら、よくこんなにも長文を書いたもんだと驚いている。
今回、三年ぶりに『羊をめぐる冒険』を再読した。幾つかのキーワードは覚えていたが、ほとんどのことを忘れていたので楽しんで読むことが出来た。そして、以前とは全く違う解釈をするようになっていた。
以下、『僕』と記載あるものは筆者ではなく、本小説の主人公のことを指します。
イマジナリーフレンド
小説の大半は僕の視点から語られる。そのため感じたこと、心理状況、村上春樹的な独特な修飾語はすべて僕が語っていることになる。
本小説の中で、村上春樹的な修飾語を使う人間は二人居る。僕と鼠である。鼠から僕へと送った手紙の中で
平べったい黒い鳥が頭の上でばたばたやってるみたいで
と書いている。
鼠と親しかった女とコンタクトを取るために僕の外見を伝えようとすると「見当がつくわ」と話を遮られ、実際に迷うことなく背後から声をかけられる。初めて会う相手の外見を知らずに声をかけることが出来るだろうか。
「それで、すぐにわかりました?」「すぐにわかったわ」と彼女は言った。
このことから今回、僕と鼠は同一人物説という解釈で読み進めた。要はファイトクラブだ。
更に増えるイマジナリーフレンド
ひょんな事から羊と鼠を探すためにガールフレンドと一緒に北海道へ向かった僕。道中、二人で車に乗せてもらうシーンで、
管理人は彼女の存在にはじめて気がついたみたいに、ハンドルに手を置いたままぐるりとこちらを向き、彼女の顔を食い入るように眺めた。
鼠を探しに別荘に訪れた僕。ある日羊の着ぐるみを来た男、羊男がやって来る。
羊男はガールフレンドをこの地から追いやり、二度と会えなくなった。
そして羊男が映るはずの鏡をのぞくと、
僕は鏡の中の羊男の姿を確かめてみた。しかし羊男の姿は鏡の中にはなかった。誰もいないがらんとした居間に、ソファー・セットが並んでいるだけだった。
僕=鼠説は上記で記載したが、その鼠は、
「そうだよ」と鼠は静かに言った。「俺は死んだよ」
2018年の解釈
主人公はひいき目に見ても一般社会になじめない人間だ。そんな彼が自己の精神安定のために様々な人間を作りだしロールプレイングしている。
2,妻はそんな僕を愛しているが、僕と鼠行き来する生活に耐えられなくなり別れる。
3,僕は妻を失ったことから、実在するモデルからインスピレーションを受け、ガールフレンドを作り出す。
4,羊男は僕の中の純真さと潔白さ弱さから生み出されたもの。一人っきりで自己と向き合わせるためガールフレンドを消した。
5,最初のイマジナリーフレンド鼠は死んだ。
ファイトクラブ方式で言えば、タイラーが死ぬと主人公と一体となり、新たな人格が生み出された(私は映画のラストをそのように解釈している)。
それと同じようにガールフレンドは消えた、鼠は死んだ。しかし僕の中にはたしかに残っている。通り過ぎたのではなく一体になったのだ。
百通りの解釈
10月のはじめから、そのような先入観の中で読み進めた。ただ、矛盾だらけである。しかしながらこの読み方をして一定の満足感と話の繋げ方に納得をしている。
ハードボイルド、ミステリー、ホラー、オカルト、恋愛、友情、喪失、孤独と様々な読み方があり、解釈の仕方は読んだ人それぞれになるだろう。
問:このときの筆者の気持ちを答えよ。という問題を出されても、あれもこれも間違ってもいるし、正解でもある。それほどまで柔軟性のある小説だが、「で、一体何が言いたいの?」と自分で考えられず、決まった答えを求めてしまう人には向かないだろう。
絶望の物語だと思っていた『羊をめぐる冒険』だっただ、たった三年で、自己否定をし続けた男が現実を見ようとし始めた自己再生の物語として読むことが出来た。
以上をもって羊をめぐる再冒険を終える。
数年後に読んだらまた変わるのだろうか。